平和のヘルメちゃん日記

平和と哲学についてのあれこれ記録

にほんブログ村 政治ブログ 平和へ にほんブログ村 環境ブログへ ← 平和のための第一歩、ポチッとな!

栄養サミット

❝2021年12月7日、岸田首相が「東京栄養サミット」で、栄養失調に陥っている途上国の子供らを支援するため今後3年間で3000億円以上の資金支援を行うと表明。また、アフリカ諸国に約1000万回分のワクチンを提供する考えも明らかにした。❞

 

やるじゃん岸田ァーーー!!!笑

官房長官時代の菅さんは私の推しではあったものの、トップには向かないと落胆していた矢先、河野さんのような個性もなく何だか地味な岸田っちが台頭して不安だったが、よくよく観察すれば、

粛々と、淡々と、ただひたむきに、悪目立ちせず…!

10万の現金給付も賛否あるが、本当に今経済的に困っている人が求めるのは現金だし、私は迅速な判断(給付条件には賛成しかねるが)で評価している。

そんなとき、このニュースを耳にして、嬉しくなった。

もちろん賛否あるだろう、そもそも借金大国が借金を増やしてまでやることなのかとか、強制徴収されている税金を寄付に使っていいものかなど。

そして世間知らずで政治に詳しくない私が口を挟んで足を掬われそうだが、別に完璧な評論を目指してここに記録しているわけでもないし、反対意見があればより勉強させてもらえばいいのだ。反論を恐れて自分の意見をしまっておくことは、あまりしたくない。少し勇気はいるが。

 

なんというか、国のトップの人が、こういうグローバルな場で問題意識を表明し、世界に発信していくことの貴重さよ。

これこそ、同じ世界に栄養不足と過多が同時に存在するのは不自然だ、との小さな意識の高まりの結果だと思える。

 

(※全文につき、敬称略。笑)

とりあえず寄付を

よし、今日中に以前からやろうと思っていた定期寄付先を決めよう、と目標を立てた。子ども兵の絵本(『ぼくが5歳の子ども兵士だったとき ー内戦のコンゴでー』 ジェシカ・ディー・ハンフリーズ、ミシェル・チクワニネ著 渋谷弘子訳 株式会社汐留文社 2015年)を読んでから一週間くらいのちである。

 

寄付にもなかなか重い腰が上がらなかったのは、

寄付先を調べ上げて絞らないといけないことと、何故か日本では寄付先団体が怪しいとか、資金を人件費や無駄につかってばかりという意見をよく耳にするからだ。

 

前者について、ググると寄付ナビという、寄付先を分かりやすく紹介したサイトを見つけた。そして、子ども兵の社会復帰等を支援する「テラ・ルネッサンス」と、外務省をやめて医者として医療活動をしている「ロシナンテス」に決めた。

たった2つの団体のみ。しかもわずかな額。

つい気持ちばかり先行してしまい、まとまった額をポンと寄付してしまいそうになるが、ここは長期的な支援をしたいと思っているので焦りは禁物。お釈迦様だか誰だかも、お金持ちがする多額の施しよりも、貧しい者のする僅かな施しのほうが尊いんだよ、と言っていた気がする。

 

後者について、駅前で定額寄付を募集しているUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の外人風の顔立ちのお姉さんと話したときに、外国では寄付はもっと身近で日常当たり前のことなんですよ、日本では定期寄付は本当に少なくて、こうやって駅前とかで地道に訴えてキャッチして支援者を募るしかないんですと言っていた。確かに、日本で定期の寄付をしている人って…私の周りには恐らく一人もいない。そのお姉さんには、他の支援先を見つけたのでごめんなさいと心苦しくお断りしたが、私のようにネットで積極的に支援先を探す人はやはりレアらしい。ちなみに別の日、これまた駅前でWFP(食料支援等をする国連の団体)の募集をしているお兄さんに、テラ・ルネッサンスロシナンテスの寄付をしていることを話したら珍しがられた。笑

確かに、寄付ってお金がきちんと使われているか心配になるし、詐欺まがいな怪しい団体もあるんだろうけど、ちゃんとした団体はHPとか定期メールとかで随時報告をしている。寄付をする側としては、考えもなしに自分の大切なお金を預けるんじゃなくて、信頼できる団体をきちんと選別する責任があると思う。それでも寄付が怪しくて信じられない、という人はきっとSNSとかで無責任に軽口を叩きふらしているだけの存在なんだろう。

 

数ある寄付先から、共感できる団体を絞るだけでもハードルが高くて、ずっと後回しにして行動してこなかった自分。

でも今日、無事に定額寄付に登録できた。携帯ひとつで、口座番号等を入力するだけ。簡単で、機械音痴の私ですら3分でできた。

 

よし、ここからだ。

核兵器の根絶は不可能か

原子力爆弾や核兵器の根絶は、私は心底切望している願いであるが、

実際は実現不可能なのではないかと懸念している。

 

現代は表向き平和を装いながらの、しかし平和等の大義名分を従えた核の開発合戦を各国がしていて、結局はすんごい核を持っている国が、それを脅迫まがいにチラつかせて発言力を持っている。

そんなブームの中、我先にと平和のために核を放棄して丸腰になろうもんなら、北朝鮮だのなんだのを牽制できない。なめられてしまう。国防ができない。

かといって、諸外国が仲良く手を取り合って、せーの皆で核の放棄ができるほど仲良しでもないし、ズルして陰で核を手放さない国が絶対出てくるだろう。

 

 

…とどのつまり、核の根絶は無理なのでは?

この点について、学者とか有識の方々は、どういった意見なんだろう。

核の根絶と、国際社会における自国の安定した立場(十分な国防)は、両立できるという人はいるのだろうか。

むしろ世界から核の根絶ができるのなら、お次は戦闘機、お次は戦車、戦艦…と順を追って実現を目指していけそうなものだが、まずは第一歩の核からして前途多難である。

そうこうして核の開発合戦をしているうちに、何かの間違いでドカーンとなってしまいそうで怖くて仕方がない。

 

いやしかし、矛盾することをいう。

歴史を見ると、一揆、蜂起、デモ、反乱、紛争、戦争は、不安や不満に感じる者がだんだん数を増やし、総意となって行動をしている結果である。そしてお互いに戦争はつらいからやめましょうとの約束事を結んだり、軍事縮小の思想が出てきているのもまた、そういう意志が増え、総意に成長し、行動を起こしているのである。

一人一人の声は小さくて、世界の国々を相手に平和を主張したくても、まるで何もできないように感じるけれども、

核の根絶を望む強い声が、世界中から溢れて大多数の総意になれば、それはもう、国家の意志と同視できるようになるのである。

 

私はせっかちで、今すぐできないなら不可能だと結論づけて終わりにしてしまうところであった。確かに魔法のように、今すぐ核をなくすことはできないだろう。

しかし時間はかかるかもしれないが、どんどん核の廃絶を本気で願う声が高まっていけば、国の行動をも凌駕できる。これは、儚い推測ではなく、今なら頑固たる確信をもっていえる。できる、と。

 

だから声を上げよう。一人でも多くの人と、核を根絶したい、という強い意志を共有しよう。そして声を広げよう。

ブログを始めた目的

単刀直入に言うと2つあって、

 

①平和への意識や行動をたくさんの人と共有したいから。

②自分の平和活動(?)の記録を残したかったから。

である。

 

①について、

とりあえずできるだけ多くの人に現状を知って欲しい。

無知でなくなれば意識できる。

意識ができれば行動につながる。

行動は実現につながる。

この風車を回す、微微微力な電力になりたい。

 

②について、

自分の日記の記録を残すことで達成感に浸ったり、反省したり、思い出したり、振り返ったり、文章を書くことを楽しんだりしたいからである。

ちなみに今流行りのブログで副業ができたら一石二鳥じゃんと思ったけど、

うちの会社は副業禁止なので夢消えた。笑

まぁそんな技量ないから心配する必要もなし、と。

昔から今へ

f:id:HeiwanoHerumechan:20211210222519j:plainまた、しばらくどこかに置きっぱなしにしていた“気掛かり”。少し、自分の時間をもてるようになって足を運んだ中古書店で手に取った、子ども兵について書かれた絵本(『ぼくが5歳の子ども兵士だったとき ー内戦のコンゴでー』 ジェシカ・ディー・ハンフリーズ、ミシェル・チクワニネ著 渋谷弘子訳 株式会社汐留文社 2015年)。
目を逸らすことができず、一気に読んだ(立ち読みごめんなさい。)。
途中、恐ろしくて何度も息をのみ、呼吸を整えて、また読み始めた。
読み終えて、怖くてぶるぶると震えだした。
子ども兵という言葉は聞いたことがあったので、大体の内容は予想がつく…そう思っていたのだが。
読むことは、疑似体験をしているようなものだ。
そしてリアルでは、こんな生ぬるい感覚では済まされない。

ーこの本は、いつまで経っても行動を起こせない自分への戒めとして、家に置こう。
この本はきっと、私を行動へと駆り立ててくれるーそう思って、家に迎えた。



それがちょうど、今から2か月前くらいである。
その間、小さな小さな行動の一歩を、いくつか踏み出してきた。それはまた書いていく。
今、私が下手なブログを書いて記録をつけ始めたこと、それもまたその一歩である。

昔のはなし③

昔のはなし②で小学生の頃の話をしたので脱線してしまったが、昔のはなし①の続きを。

学生の頃、世界平和のために何ができるか考えた。
そしてすぐ、考えるより先に行動にうつせば良かったのだが…

そもそも世界平和とは何か。
世界を平和に進めていくことはいいことなのか(単に倫理的な意味ではない。人間という動物が、戦争等の自然淘汰により、優秀な遺伝子を残すための活動を阻害するのではないかという懸念)。
そもそも戦争紛争をなくすことは可能なのか。
…等々、

当時哲学的思考にハマっていたこともあり、どんどん問いが問いを呼び、深みにはまり抽象化していき、すっかり頭でっかちになってしまった。
挙げ句、こんな結論を出してしまう。

…人間である以上、争いをしないなんてのは無理だ。
つまり、世界平和は、夢物語で実現できない、と。

力もなく、強い意志も持ちえない私だが、それでも小さい頃からそれなりに強く平和を望んできた私だ。
しかし、それは不可能だと、答えが出してしまったのだ。


表面上は何もしていないのに、ただ考えを巡らせて出した結果に強く挫折し、
酷くショックを受けてしまう。
そしてしばらく落ち込み、あまり思い出したくないと軽く蓋をして、
また私は目の前の学生生活やアルバイトに手いっぱいになっていった。



いやー、どうしようもないなまったく。笑
ちなみにその当時、頭でっかちになって考えていた“そもそも論”も、そのうち文章化してブログに乗せたいと思う。

昔のはなし②

思えば小学生の頃、学校で赤い羽根募金を募っていて、多くの同級生が100円玉を握りしめて持ってきていたが、私はおこづかいの1000円札を持っていった。

そしたらクラスメイトや親に「わぁ凄いね」と言われ、腑に落ちなかった記憶がある。

…全然凄くなんかない。
たった1000円ポッチしか、募金できないのだから。
しかも、これは私が稼いだお金じゃない。

当時、自分の無力になすすべもなくガッカリしていたことを覚えている。

それにも関わらす、喉元過ぎれば熱さを忘れ、その後募金やボランティアをする訳でもなく、また冴えない日常に呆然と身を投じていったのだ。